紙の本>【Sample】『花のゆくえ』page3

 時刻は四時半。
 いつもなら、まだ海岸にいる時刻。
「ゾンマーフェルトです。マナナーン市国の経済産業局長を拝命しております。こちらは秘書のルイス」
「すいません、もう一回」
 固有名詞を一度に覚えられないのが僕だ。ところで経済産業局って、確か、僕の研究のことを役に立たないとか何とか言って、予算を八割カットさせたところじゃなかったかな。
「ゾンマーフェルトです。在来生物研究の権威である、イー博士でいらっしゃいますか」
「僕がモーセシス・イーです。権威も何も、ほかに誰もやっていないうえに、昨年見事に予算を八割カットされましたが、何か」
 と、名乗るついでに、思わずそんな言葉が漏れる。ニレが呆れた顔で僕を見ていた。
「お茶を淹れますから、座って適当に話をしていてください」
 彼女はため息混じりにそう言って、垂れ布で仕切られた台所に入っていく。ニレの家は、居間と台所、奥の寝室という造りになっている。村の家はだいたいこんな感じだ。僕はこの家の近くに掘っ建て小屋をつくって、水回りだけこの家の世話になっていた。もともとはこの村の近くでキャンプ生活をしていたのだけれど、それに気づいた村の人たちが食事や水を差し入れてくれるようになり、いつの間にかこうして居着いてしまった。
 ニレに勧められるまま、客の二人が隣り合って座り、僕はその向かいに腰を下ろした。椅子は三つしかない。もとは、ニレ親子と、客用だったらしい。今は、ニレと僕が座り、残りが客用になっている。ニレの母親は病気で、ほとんど寝たきりだからだ。
「早い時間に失礼しました。先ほどのお嬢さんはまだ眠っていたようで」
「彼女の母親も眠っています。病人です。大きな声はご遠慮ください」
「あなたは起きているだろうと、お聞きしたものですから」
 ゾンマーフェルト氏はそう言った。
「僕は起きていますが、僕は荒野にひとりきりで暮らしているわけではありません」
 なぜ、こんな辺境で暮らしている僕が、都会から来た人間を相手に、社会生活について説明しないといけないのだろう。少し苛立っていることを自覚して、僕は大きくゆっくりと、ため息をついた。気持ちを水平に戻す。互いによく知らない相手だ。腹を立てても仕方ない。
 僕は改めて、客の顔を見た。ゾンマーフェルト氏は、初老で、面長で、白い髭を蓄えていた。濃いブルーのスーツに、無地のネクタイを締めている。
 一方、秘書のルイスは、僕とそう変わらない年齢の女性で、ベージュのスーツを着ていた。彼女は座るなり端末を取り出し、仕事をする人の顔になった。さあどうぞ、始めてください、というように、彼女は自分のボスと僕を横目で交互に見ている。
「研究室が移転されていたものですから、大学の教務課で連絡先をお聞きしまして、こちらまで伺うことにしました」
「移転も何も、家賃が払えなくて追い出されたんですけど」
「研究の方は、いかがですか」
「話聞いてた……?」
「それにしても、ここは暑いですね。こちらまでは普通の電気自動車では無理だと言われまして、警察から車を借りたのですが、これがまた乗り心地が悪くて」
 聞いて。
 ちらりと見ると、ルイスはキーボードをタッチして、何かを記録している。もしかしたら、今の不毛なやり取りも記録されているのかもしれない。表情は石膏で固めたように微動だにしない。
「さて、本題に入りますが」
 と、ゾンマーフェルト氏は話を切り出す。ここまでの会話は、何だったのだろう。都会ではこういう挨拶をするのが常識なのだろうか。というのはもちろん皮肉だけど。
「マナナーン市国のことです」
「でしょうね」
 公人を名乗っている以上は、ほかの用事で来るとは思わない。
「食糧危機に関することです」
「食糧危機」
 僕は、相手の言葉を繰り返す。頭の中で、右から左、左から右へと数回転がし、その意味を考えてみる。僕は農家でも農学者でもなく、経済学者でもなければ、貿易関係の仕事をしているわけでもない。食糧に関して言えば、誰かが作ったものを金で買うだけの一個人でしかない。この星が食糧危機に陥っていたとしても、何か直接的に貢献できるようなことは思いつかない。少なくとも、政府機関の局長クラスがわざわざ訪ねてくるような理由は見当たらない。
「国内の食糧事情は、非情に逼迫しています」
「はあ」
 身を乗り出してくる相手に対して、反射的に体を引いてしまう。けれども、ゾンマーフェルト氏は構わずに続ける。
「マナナーン市国の人口は百二十万人ほどですが、我が国の食糧生産は、そのすべてを養うには到底足りません。気候が地球の作物の栽培に適さず、徹底的に温度や湿度をコントロールされた環境下でのみ可能であり、国産の食料品はたいへんな高級品です。自給率はカロリーベースで一パーセントに満たず、ほとんどを近隣の惑星からの輸入に頼っています。ここまではよろしいですね」
「よろしくないです」
 別に僕は目の前のこの初老の紳士が気に食わないわけではない。初対面で人を嫌いになるような、迅速な判断力は持ち合わせていない。ただ、唐突にやって来て、惑星規模の話をされても、こちらには準備も何もない。
「僕はあなたのような立場の方とは違って、常にマナナーン市国全体のことを考えているわけではありません。食糧ということであれば、自分ひとり食べていくのがやっとです。もう少しかいつまんで話してもらえませんか」
「一応、専門家のデータもお持ちしました」
話を聞いて。
 ルイスが、手元の端末をこちらに見せる。カロリーベースで算出された、食糧生産量、輸入量、そしてそれに対する必要量。百二十万人が向こう十年間に必要なカロリーなんて、数字が大きすぎてよく分からない。
「こちらが輸入量と、我が国の人口を重ねたデータです。この二百年あまりの間、マナナーンは、都市の発展のため、積極的に移民を受け入れてきました。それにより、開拓公社の支援を受けることも目的ではありますが。ともかく人口の増加に伴い、食糧の輸入量も増加しています。ここと、ここを見てください」
 緩やかに右肩上がりの折れ線グラフは、指さされた二か所だけ、わずかに凹んでいる。
「近隣諸国での開戦と前後して、食糧の輸入量は大きく減少しています。安全な航行が担保できないことと、政治的な事情にも左右された結果です。戦争が広がる傾向にある今、こうしたことは近い将来にまた起こると考えられており、そのとき、この減少幅はいっそう大きなものになると予想されています。具体的には向こう五年から十年の間に、人口増加に対して、食糧確保が追い付かなくなる。そこで、です」
 ゾンマーフェルト氏は端末から手を離す。
「我々は、食糧自給率を上げる方法を模索しています」
 ようやく、おぼろげに、話が見えてきた。僕は在来生物の研究者ということになっているのだ。少なくとも目の前の人物は、そのつもりで僕に会いに来た。
「地球の作物は生産が追い付かないから、代わりにこの星の在来生物で代用できないか、ということですか」
 抑揚のない言葉だと、自分でも分かる。機嫌が悪い。
「そのとおりです」
 現在の食糧自給率が一パーセント未満だというなら、完全に自給するには、単純に考えて百倍以上の生産性をもつ作物を見つけてこいと言っているわけだ。そんなものがあるとしたら、僕はとっくにこの星の救世主になっている。何の役にも立たないと思われて、大学の敷地から放り出されることはなかった。
 それは、まあ、僕の個人的な恨み言だからいいとして。
「前々から僕が論文で指摘しているとおり、この惑星は、食糧の自給が不可能な環境とは考えていません。地球式の農業技術がこの星に適していないだけです。現に、マナナーン市国の外縁部に点在するこの村のような集落では、小規模ながら農業生産に成功し、ほぼ自給できている状況です」
「その論文は拝読しました。しかし、この農業は非効率的すぎます。少なくとも、マナナーン市国の国民を飢えさせないためには、こんなやり方では追い付かない」
 僕は黙る。効率とか生産性とか、そういう言葉を出されたら、僕は黙るしかない。専門外だ。
 そこに、ニレが台所から戻ってきた。素焼きのカップが三つ。ハーブティーの香りがした。ゾンマーフェルト氏とルイスは、不可解そうな顔でカップを手に取り、覗き込み、匂いを嗅ぎ、僕が気にせずに飲んでいるのを見てようやく口を付けた。果物の匂いにしては少し癖がある。リンゴにユーカリの香りが混じったような匂い。この星の在来植物を乾燥させたお茶だ。僕が拾ってきた種子から、無事に生長した数少ない成功例。こういうお茶を、ニレは何種類も作ってマナナーン市国に卸している。それはこの村の数少ない現金収入になっている。
「これは閣議決定なのです」
 ゾンマーフェルト氏は言う。絶対王政における王の言葉だというように。
「我が国は、これから五年間で、食料の八割を自給することを目標とすることが決まりました。周辺諸国の政情がますます不安定なものになれば、食糧の輸入が滞ることも考えられます。もちろん、こうした事態を想定して、政府は穀物や加工食品を大量に備蓄していますが、百二十万人を何年にも渡って満足させることは不可能です。備蓄品を消費しながらも、平行して自給方法を確立する必要がある。つまり」
「失政の責任を、税金を無駄遣いしている研究者に押しつけようというわけですね」
「まあそうですが、それだけではありません」
 それだけではないのか。
「少なくとも、閣僚の中にそういう考えの人間がいることは事実です。彼らの言い分はこうです。百二十万人を維持することは不可能だ。けれども、二万人程度であれば、向こう十年間、わずかに自給できる食糧と、不安定ながら入ってくる輸入と、政府の備蓄でなんとか食べていけるだろう、と。しかし」
 それを政策として開示することはできない。
 はじめから九十九パーセントの人口を死なせるという政策はない。社会の構造も変える必要がある。だから、頑張ったけれども無理でした、という形にしなければならない。つまり。
「九割以上の人を餓死させ、僕にその責任を押し付ける、と」
 ルイスは無表情にキーを打ち続けている。僕らの会話を一言一句逃さずに記録することが、彼女の仕事なのかもしれない。
「失敗に終われば、そういうことになるでしょう」
 正直でよろしい。
「拒否権はなさそうだね」
「そんなことはありません。あなたは市民であり、市民にはご自身の行いに対して、あらゆる自由が保障されています。ただし」
「ただし」
 と、僕はその不穏な接続詞を拾う。
「ただし、お受けいただけない場合は、もちろん、研究費の審査に影響するでしょう。国の金である以上、国にとって有益であるということが認められなければ、減額や支給停止となる可能性もあります」
 それ、実質、首では。
 僕はため息をつく。
「私は、百二十万人を救うことはできると考えています。そのためにはあなたに協力いただかなければならない」
 背後には政治が見える。このゾンマーフェルトという男と、対立する他の閣僚たち。顔も知らない人間たちによって、僕はよく分からないけれども、何らかの役を与えられて、ステージに引きずり上げられてしまったらしい。
「わかりました。善処します」
 そう答えるしかない。
 それで、話は終わりだった。
 去り際、ゾンマーフェルト氏は深々と頭を下げた。ルイスもそれに倣った。彼らは車に乗り込み、走り去った。車にはほかに二人乗っていた。運転手と、もう一人は助手か何かだろう。
 僕は車が遠ざかって行くのを見送りながら、考えていた。
 どうやって逃げようか、と。

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