ファエトンの残り火


   
   
   
   
   
   
 ハルは、静かに焚き火に薪をくべた。
 薪は小さくはぜ、赤く燃え始めた。
 周囲には、何もない。荒れた土地が広がっているだけだ。焚き火の周りだけはぽっかりと明るく、あとは真っ暗で何も見えない。潮騒が聞こえる。海が近い。けれど、それを見に行こうとは思わない。ただ手をかざして、体を温めようとしている。着ているのは薄いジャンパーで、この寒い夜をやり過ごすには、いささか心許ない。ほかに寒さをしのげるようなものもない。毛布もコートもない。それどころか、彼の周囲には鞄もリュックもない。身ひとつで、ここにいる。
 ずいぶん長い間、こうしている。誰も来ないし、声も聞こえない。この夜がいつから続いているのか、そしていつか明けるのかも、分からない。
 ここは、そういう場所だった。

 旅人がやって来たのは、もう薪も尽きようという頃だった。
「仲間から、はぐれてしまったようです」
 そう、言った。
 カーキ色の長い外套を着て、大きな荷物を背負っていた。
「少しの間、火を貸してくれませんか。ここは、ずいぶん寒い」
 ハルは、どうぞと、焚き火の前を勧めた。
 旅人は荷物を下ろし、火の前に座った。手をかざし、そしてその手をゆっくりと、何度も摺り合わせた。いくら温めても、地面からじわじわと冷気が体に染み込んでくる。ハルは火が小さくならないよう、残り少ない薪をくべた。
「今日は、『星渡りの夜』ですね」
 旅人が言った。
「流れ星が見える夜ですよ」
 ああ、そんなこともあったと、ハルは朧気に思い出した。
 ふたご座流星群の夜だ。
 大人も子どもも遅くまで起きていて、流れ星を眺める。毎年繰り返される、ささやかなお祭りだった。
「すっかり、忘れていたよ」
 幼い頃は遅くまではしゃいでいたけれど、大きくなってからは、星を見ることもなくなった。
「ええ、そうでしょう」
 旅人は、少し悲しげに俯いた。
「色々なことを、忘れてしまいますから」
 そう言って、空を仰いだ。煙が立ち上っていく先には、浜辺の砂を零したような小さな光が散らばっている。そのことに、ハルは今まで気づかなかった。
「どんなことも、そうなんです。アルバムとか、思い出のものとかね。納戸にしまって、それきりになってしまうんです」
 そういえばそうだと、ハルは小さく頷いた。
 自分にもそんなものが、あったかもしれない。
 あったのだ。
 けれど普段使わないものは、納戸のずっと奥にしまいこんでしまう。アルバムを引っぱり出してくる機会なんて、そう頻繁にあるわけではない。そうやって、存在すら忘れてしまう。
「それを全部なくしたときに、そういうものがあったんだと、ふと思い出すんです」
 そう言う旅人の荷物は決して大きいものではなく、必要なものだけをどうにかまとめて背負ってきたという風だった。
「あなたは、そんなもの何も持っていないように見える」
 彼は、そのとおりですと、小さく微笑んだ。
「ずいぶん、色々なものを失いました。長い、長い旅でしたから。でも――」
 旅人の衣服はすり切れて、汚れていた。その胸に、そっと手を当てた。
「失うということは、思い出すということでもあるでしょう。納戸にしまうのと同じに、自分の心にもしまっているんです。失えば、思い出す。ああ、こんなにも大事なものがあったんだと、思い出すんです。失わなければ、心の奥にしまい込んだまま、死ぬときまで忘れていたかもしれません」
 ここにはもう、何もない。ただ暗く、ただ寒い。
 薪をくべ続けなければ、凍えて死んでしまう。
 何もないのだと、ハルは思った。もう、何もないのだ。
「ところで――あなたは、いつまでここにいるのですか」
 旅人は静かに、問うた。
「いつまでこうして、こんな寒いところで火を燃やし続けるのですか」
 夜が明けるまでと、ハルは答えた。
 けれども、薪はもう残り少ない。
「いずれは、消えるのでしょう?」
 旅人の声は、穏やかだった。
「いずれは燃え尽きて、消えてしまうのでしょう? なら――」
 そう言ってまた見上げた空に、ふと、光が流れた。
 今日は流星群の夜だ。星だって、流れていく。何の不思議もなく、何の意味も持たず。正しさもなければ優しさもなく、ただそれが当たり前のことのように流れて、消えていく。
「なら、どうしてこんなところに居続けるのですか」
 ハルは、答えられなかった。
 いつからこうしているのかも、いつまでここにいればいいのかも、分からない。ここは暗く、そしてあまりにも寒い。この火が消えたらきっと、凍えて死んでしまう。
 そうだ、死んでしまう。
 胸を締め付けられるような気がした。
「あなただって、深く悲しみ、傷ついたのでしょう?」
 二人の間で、小さな火が、かろうじて燃え続けていた。
「空は広く、世界は大きく、沢山の人がいて―――でも、そんなことは関係なく、あなたは確かに悲しみ、傷ついたんでしょう?」

 そろそろ行かなければと、旅人は言った。
 ゆっくりと立ち上がった。荷物を背負い、そっと右手を差し出した。握りかえすと、その手はまだ冷たく、それがハルにはどうしようもなく寂しかった。引き留め、まだここにいてほしいと懇願したくなるような、冷たくこわばった手だった。
「大丈夫。あなたの思い出も、悲しみも、あなたの行く先にちゃんと、ついていきますから」
 そう言って、冷たい手をはなした。
「暖を、ありがとう。いつか――あなたが見上げた空に流れる星があれば、それは、僕かもしれません」

 そして、旅人はまた暗闇の中に戻っていった。
 焚き火は段々と小さくなり、やがて燃え尽きた。
 あとにはただ、冷たい暗闇が残された。

 ふと見上げた空に、砂を零したような星が遠く、光っていた。  
   
   

  
<了>

「ファエトンの残り火」 2012/3/11
(C) 2012 Kurage (Sasaki Kaigetsu)
  
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