ヨサリは、毎晩、水槽の底で眠る。
水槽は古く、脆い。表面のひびは少しずつ広がり、ほろほろと欠けていく。
目を閉じ、想像する。
眠っている間に水槽が崩れ、呼吸を失う瞬間を。
呼吸を失ったヨサリは、二度と目を覚まさない。身体は冷たくなって、微生物の餌になる。骨となり、化石となり、何億年も、何十億年も、ある地層のある場所に、そっと居続ける。この膨大な年月をひもとく、誰かが現れるまで。
そういう想像を、する。
そういう想像の中で、毎晩、幾億年という、長い眠りにつく。
* * *
ユウは、まるい小さな窓から、じっと外を見ている。
潜水艦は、ゆっくりと下降しているらしい。窓の外は真っ暗で、本当に下降しているのか、それとも浮上しているのか、同じ場所を漂っているのか、感覚としては良く分からない。
ときおり、何かが分厚いガラスを叩く。その一瞬だけ、艦内の明かりに照らされて、その異様な姿が浮かび上がる。この潜水艦の外側に存在する、真っ暗な世界の断片だ。
(異様? いや、違うか)
ここが、地上とは異なる秩序で成り立っているという、ただそれだけのことだ。その秩序に適応した最も美しい形状を、ユウは一瞬恐怖し、嫌悪し、そしてやはり美しいのだと理解する。その美しさを見せるために、その生き物はほんの一瞬、こちら側に迷い込んだふりをしたのだ。
「わかば先生、まだ?」
ユウは、後ろで書き物をしている指導教官に声をかける。いい加減、外も見飽きていた。
「まだですか、な。……そろそろ見えてこない?」
「真っ暗で、何も見えねえよ」
窓から、心もち下方に目をやる。見えるのは、ヘッドライトの光さえどろりと飲み込むような、粘度の高い暗闇ばかりだった。
「あんたの図体じゃ窮屈だろうけど、もう少し我慢しな」
「小柄アピールですか」
「なんで、そういうのだけ敬語なの?」
そのときちょうど、操縦室と繋がる電話が鳴り、窮屈な師弟喧嘩は中断した。
「あと五分ほどで目標を視認できそうだ、とさ。向こうとも連絡が取れたらしい」
その施設は、日本海溝の底にある。
三十年ほど前、文明の痕跡と思われる巨大な建造物が、ここで発見された。場所が場所だけに、調査は困難なものだった。それでも、入れ替わり立ち替わり、考古学者たちが訪れた。彼らは、様々な方向から写真を撮り、材質を調べ、年代を推定し、在りし日の姿を思い描いた。
そうして調査が一段落したのが、十年ほど前のこと。成果は地上に持ち去られ、彼らが再びこの遺跡を訪れることはなかった。ここは深く、暗く、遠すぎる。
代わって訪れるようになったのが、海洋生物学者だった。
新しい訪問者たちは、木と石の建造物を、強化ガラスと特殊セラミックで補強した。自立した生活を営めるよう、発電設備や浄水設備を置いた。また、生物研究に必要な様々な機材を持ち込み、ここを訪れるすべての研究者が自由に使えることとした。今ではすっかり、深海生物の研究拠点となっている。
ただ、通信だけは技術的な問題があり、未だに地上と安定的に交信することは困難だった。そのため、実際には長く滞在する研究者は少ないという。
「……今は、誰もいないんじゃなかったっけ?」
「ああ、言ってなかったか。一人いる。数年前から住み着いている、変わり者の研究者が」
そりゃあ変わり者だろう、とユウは思う。
「誰もいないのと、一人いるのとでは、だいぶ違うだろ」
「誤差だ」
「無と有を誤差で済ますなよ」
「生まれることなく終わるのと、永遠を生きるのとでは、何が違う?」
「同じか」
「そうだよ。我々は常に、その間のどこかにいる」
機関音が、変わった。ドックに入ろうとしているらしい。
「実を言うとな、幽霊だ」
唐突に、わかばはそんなことを言った。
「は?」
「古い遺跡によくいるだろう?」
「いるけどさ……海の中だぞ? さすがに無理じゃね?」
「無理じゃない。捕獲するぞ」
「捕獲?」
わかばはすでに、降りる準備にかかっていた。
その幽霊は、ヨサリといった。
皮膚が白く、骨ばった細い体つきの、物静かな青年だった。
三年ほど前から、ここで暮らしているという。彼は、まるでこの施設の管理人のように、ユウとわかばに一通りのことを説明した。いつの間にか、そういう役割になっていたらしい。
施設には、実験室や資料室といった研究のための区画と、滞在者が寝泊まりするためのゲストルームや共有スペースが並ぶ区画がある。その範囲は、遺跡全体から見ればほんの一部だという。あとの領域は、水が入らないよう補強され、安全は確保されていたが、それ以上の設備はないと説明された。
ゲストルームはどの部屋も綺麗にととのえられていて、ユウは、ヨサリという青年が、本当に幽霊かもしれないと思い始めた。
「あのさ、わかば先生」
「何」
わかばは、自分の荷物を抱えて、適当に選んだ部屋に入っていくところだった。
「あいつ、どこで寝てんの」
「標本室だろ」
何でもないことのように、言う。標本室。
「あの部屋だけ、中を見せなかったろ?」
「標本室って、何があんの?」
「生物標本とか。ホルマリン漬けの」
それからふたりは、しばし互いの顔を見たまま、動きを止めた。
「まあ、色んな人間がいるから。私たちだって、ベッドで寝る」
「そりゃあ」
「別の誰かから見れば、滑稽かもしれないだろ」
「お、おう」
そうして、それぞれ自分が使う部屋に入っていった。
それから数日、幽霊とは遭遇しなかった。
ヨサリというその青年は、ユウたちと積極的に関わりたいとは思っていないようだった。少なくとも、すぐに打ち解けて酒盛りを始めるタイプではなさそうだ。ユウは、少し安心した。
(だって、めんどくせえし)
体が大きく、体育会系と決めつけられることが多いユウだったが、実際は、ひとりきりでいる方が好きだった。他人に何かを求めることも、求められることもない。その安定性を、ユウは、尊いものと考えていた。
あの青年も、そうなのかもしれない。何日かするうちに、そう考えるようになった。勝手な妄想だ。
ヨサリと二度目に会ったのは、滞在一週間目の、まだ夜明け前の時刻だった。もちろん、深海には昼も夜もない。暗闇は等しく暗闇だった。
ユウは、不意に目を覚ました。
部屋には、空調の微かな音だけが響いていた。煩くはない。この程度ならば、騒音のうちには入らない。二度寝しようと思えば、すぐにでも出来る。
けれども、何か落ち着かない気持ちがして、ベッドを出た。冷たいノブを回し、ドアを開ける。
そこに、ヨサリが立っていた。
ユウの姿を見るなり、おはよう、と、驚いたように目を見開いたまま、言った。
「起こしてしまったなら、ごめん」
「いや、自然と目が覚めたんだ。あんたのせいじゃない」
それから、何してるんだ、と尋ねた。
「見回り。一緒に行く?」
「邪魔でなければ。見回り?」
ヨサリは、電気や水道の設備を確認しながら、ゲストルームの区画を抜け、実験室などの区画も抜け、がらんとした廊下に出た。この辺りは、もとの遺跡を補強しただけで、石造りの建造物がむき出しになっている。湿った冷たい空気が、皮膚にまとわり付く。足元は濡れている。明かりは、通路の両側に並ぶ誘導灯と、ヨサリが持つ懐中電灯だけだった。
「湿気ているけど、一応、外の水は入らないようになっているはず」
大して興味ないというように、ヨサリは言った。水が入ってきたなら、それはそれで構わないという風だった。
ひたひたと水の滴る音が、時計の秒針のように、規則正しく響いていた。ここで時間を刻んでいるものは、もしかしたらそれだけかもしれない。それほど、静かだった。
「この遺跡、どのくらい前のものなの?」
ヨサリが、天井を見上げながら問う。
「さあ。千年くらいか? 俺も専門じゃねえからなあ」
「そう」
静寂を乱すことのないように、だろう。ヨサリは、囁くような、抑えた声で話していた。それは響く小さな水音に似て、透明で、どこか暗示的でもあった。
「お前、いつもこんなとこ歩いてんの?」
「どうして?」
なぜそんなことを聞くのだろう、と、首を傾げる。
「崩れそうで、怖くねえ?」
水の滴る音は、奥に行くにしたがって、重なりあい、春先の雨のように響く。
「設備の点検だよ。上で、説明あったろ」
「ああ、聞いたかも」
ここに来る前に受けた事前説明を思い出す。専門業者の点検は頻繁には行えないため、簡単な点検は滞在者でやってほしい、とか何とか。
「何かあっても、俺たちではどうしようもないけどね」
ふたりがいるのは、美しい回廊の途中だった。装飾の施された柱が両側に並び、おそらくは、その間から庭を見渡すことができたのだろう。今は、柱と柱の間に強化ガラスが埋め込まれ、巨大な水槽のようだった。閉じ込められている人間の方が内側で、外側を深海生物が自由に泳ぎ回っている。
通路に設置された誘導灯は、すべて内側を向いており、外側に光が漏れないようになっていた。ヨサリも、懐中電灯の光を絞り、外側には向けない。深海に光はない。それが秩序だ。この巨大な水槽は、異物なのだ。少し先を行くヨサリは、それをよく知っている。朽ち果てた遺跡の中、その回廊の途中、わずかな光の中に立つヨサリは、あまりにもこの場に馴染みすぎていた。
「君は、何をしている人だっけ」
ヨサリが、問う。
「生物の人じゃないから、研究内容は被らないと聞いたけど」
「地質だよ。土。海底の」
「そう。……面白いね」
回廊を渡りきり、広間を抜け、いくつかの部屋を通った。どこも似たようなものだった。調度などはとうに流されて残っていない。何かの部屋だったという痕跡だけが、かすかに残っているだけだ。
「なあ」
ユウは、わかばの言葉を思い出す。
「あんた、幽霊?」
ヨサリは、かすかに笑った。
「君も、そう思う?」
「俺も?」
「皆に言われているみたいだから」
あほか、と、ユウはため息をついた。
「冗談で言ってるんだろ」
ユウは、手を差し出した。
「ほら」
「何?」
ヨサリの白い手が、するりとユウの手のひらの中に滑り込んでくる。冷たかった。もう片方の手で、脈を探した。規則正しく動く場所を見つけて、ユウは安堵した。
「生きてるよな」
「そう? 自分ではよく分からないな」
「難しいことを言うなあ。確かに、生きているかどうかなんて、自分じゃ分かんねえけど。……しっかし、冷たい手だな。魚みたいだ」
深海に棲む動物を深海魚と呼ぶならば、彼もまたそうだった。
「にしても、さ。お前、結構笑うんだな」
ユウは、ふと思ったままを口にした。
「最初は、ほんとうに幽霊かと思ったけど」
ヨサリは、困ったように目を逸らした。
「俺は、単純だから」
「うん?」
「楽しいと笑うだけ」
「そうか」
それは確かに単純だ、と、ユウも笑ってみせた。確かに楽しい、と思う。何しろここは深海で、真っ暗で、静かで、綺麗だった。
綺麗だとか、美しいとか、そういう言葉を、地上ではそう口に出せない。そんな柄でもないだろうと、笑われるだけだ。言葉は伝達を待つ生き物で、伝達されなければ死に絶え、やがて生まれることもなくなる。
ここでそういう言葉が存在できるのは、水圧のせいかもしれないし、暗さや静けさのせいかもしれない。あるいは、この深い場所に辿り着いたものにしか通じない言語があるのかもしれない。地上とは似て非なる、特別な言語が。
そこまでぼんやりと考えて、ユウは、慌ててヨサリの手を離した。
「あ、悪い。ぼうっとしてた」
「君は温かいから、大丈夫」
たぶん、手のことだろう。
ふと、気づく。
この目の前にいるこの青年は、徹底的に、言葉が足りていない。はじめから、ずっと。
「あの、さ」
ユウは、少し先を歩くヨサリに、問う。ふたりは、長い廊下を戻っている。
「あんた、何で、標本室にいんの」
「海の底みたいだから」
「海の底」
どの辺が、と聞く前に、ちょうど標本室の前にさしかかり、自然とふたりは足を止めた。
標本室は、整備されている区画の中でも、端の方に位置している。薬品庫と書庫の間の小さなドアが、その入り口だった。中を覗くと、両側にスチールの棚がある。棚には、保存液で満たされた瓶が並んでいる。わずかに黄みがかって、重なると黄金色にも見える。その中に、深海の見慣れない生物たちが浮いている。ホルマリンで脱色され、白くなった姿で、静止している。
光のないはずの深海に、綺麗な光が満ちたようでもあった。
あるいは、ヨサリには、こんな風に見えているのかもしれない。
奥に、黄色い毛布が二枚、畳んで置かれていた。その横に、ノートパソコンと、筆記用具、大きめの鞄が一つ。それだけだった。
「どうして分かったの」
「ここだけ、見せてくれなかったじゃん」
気付いたのはわかば先生だけど、と小さく付け足す。
「そう。なるほど」
そうだよね、とヨサリは困ったように俯き、頭を掻き回す。
「人によっては、気味が悪いみたいだから、言わなかった」
「あんた、言葉が足りないからなあ」
思わず、ユウはそう言ってしまった。言ってから、少しだけ後悔した。
「俺はただここが好きで、だから書き仕事なんかはここでやっていたんだけれど」
パソコンのある辺りを、手で示す。
「仕事して、眠くなったら寝る生活をしていたら、こんな」
ここを寝泊まりする部屋と決めていたわけではないらしい。
「面白おかしい方向に解釈したいよね」
「聞けば、そんなもんかって感じなんだけどな」
「君は、……俺を捕まえに来たの?」
「は?」
「そうでないなら、いいのだけれど」
そして、標本室のドアが閉まる。よかったらまた、と。ドアの内側にヨサリが、外側にユウが、それぞれ取り残される。
(変な奴)
もう少し話してみたい、と思う。
もう少し時間があって、もう少し話ができたら、と。
ふたりの研究分野が被ることはなく、互いに会いに行くこともなく、ただ時折、この朝のように、ばったりと出くわすことがあった。そういうときユウたちは、短い間、短い距離を、静かに歩き、別れた。
ユウとわかばの滞在は、一か月と決まっていた。一か月経てば、潜水艦が迎えに来る。
「ヨサリ君、少し、時間をくれないかな」
最後の夜、わかばは珍しく共有スペースにヨサリを呼び、言った。
「陸に上がれ、という話?」
はじめから分かっていたと、ヨサリの目は言っていた。
「は?」
ユウは、わかばの方を見た。
「君と研究上かかわりのある研究者から頼まれたんだ。何しろ電話もメールもろくに通じないし、定期輸送艦に運ばせたメッセージにも、君はろくに返事をくれないから」
そういえば研究者なんだよなあ、と、ユウは今さらのように思い出す。
「私たちは明日戻るが、そのときに一緒に陸に上がってくれないか。君の顔を見たがっている連中もいる」
ヨサリは答えなかった。ただ、静かに首を横に振り、出て行った。
「聞いてないけど」
少し苛立っていることを、ユウは自覚していた。
「言っただろう、捕獲すると」
「それで分かるかっての」
落ち着くために大きく息を吸い、吐いた。
何となく嫌な気持ちがして、ヨサリを追いかけた。
標本室の前で、立ち止まる。
「行かないよ」
ドアの向こうで、ヨサリが言った。まだ、ノックもしていない。
「何でわかるんだろうな」
「君もだろ」
「そういえば、そうか」
あの朝、物音もなく、不意に目が覚めたことを思い出す。
「もう少し、話してみたい気がするんだけどな、あんたとは」
けれどもそれは、ここでなければならないのだと、ユウは思った。
「ねえ、ユウ」
ドアを挟んだ向こう側で、ヨサリが言う。
「水の中では、時間がゆっくり流れるんだ」
「時間?」
どこでも同じじゃないのかと、ユウは問う。
「何が違うんだ?」
「酸素濃度」
確かにここは、少しばかり息苦しい。
ドアが、わずかに開いた。
「すまない。失礼なことをしたと思う。君にも、君の先生にも」
ヨサリはそこまで言って、迷うように小さく首を振った。
ユウは、次の言葉を待った。棚に並んだ深海魚の、しなやかな曲線を描いている尾びれを眺めながら、ゆっくりと呼吸をしていた。
(呼吸?)
ここは深海なのだと、思い出す。
「皆、同じことを言うんだ。陸に上がれ、とか、顔を見せろ、とか。そして、俺が何か言う前に怒ってしまう。君みたいに、待ってくれない」
「俺は」
どうだろう、と、ユウは困ったように目を逸らす。
「酸素濃度の増加は」
ヨサリは、後ろに並ぶ深海生物に目を遣り、言う。
「呼吸代謝を加速させたんだろうね。エネルギー生産の加速。それはきっと、時間の加速だっただろう」
「確かにあんたは、ついていけない感じだよなあ」
「ねえ、生物は三十六億年かかったんだよ、陸に上がるのに」
急には上がれないと言う。
「分かったよ」
ユウは、観念したというように、両手を挙げてみせた。
「三十六億年、待てばいいんだろ? できればもう少し、早いと助かるけど」
「善処するよ」
そうして、ヨサリは今日初めて笑った。
「よう、交渉人」
わかばは、先ほどの共有スペースでコーヒーを飲んでいた。
「よう、じゃねえよ」
「どうだった?」
「三十六億年後に出直してこいってさ」
わかばは笑う。
「だよなあ……ま、こんなもんだろ。陸にいる連中には、諦めてもらうさ」
「そもそも生物って、なんで陸に上がったんだ?」
「専門外だ。知らん」
わかばは、あっさりとそう答えた。
「だよなあ」
「だが……生き残るためであることは、確かだな」
「そりゃ」
そうだろ、と言いかけて、ユウはふと、ヨサリのことを考えた。
「何で生きる必要があるのかっつうと、よく分かんねえな」
翌日、ヨサリに見送られて、迎えに来た潜水艦に乗り込んだ。
「どうか、気を付けて」
ヨサリの静かな声は、潜水艦のエンジン音に混ざり、大半が融けてしまった。
「色々と世話になった、ありがとう。達者でな」
わかばは短く挨拶をして、すぐに潜水艦に入っていった。
「元気でな」
ユウは、ヨサリの肩を軽く叩いた。それから、これで最後だと、改めて強く思った。
「確かめることも出来ないし、また会えるかも分からねえから、ともかく元気でいてくれ。そうしたら俺も、あんたはここで元気に暮らしていると思うことにするから」
「分かった。ユウも」
元気で、と。そう言いあって、別れた。
潜水艦が動き出し、遺跡は徐々に暗闇に飲まれ、やがて何も見えなくなる。
わかばは、その真っ暗な窓に目をやったまま、言う。
「生命は元来、孤独なものだ。ひとところを漂い、多くを語らず、求める場所もない」
「意外と詩人なのな」
ユウの言葉に、わかばが思い切り吹き出す。
「歴史をひもとく者は、現実的でなくちゃならん。生命史をひもとく者は、音楽家でなくちゃならん。そして地球史をひもとくならば、詩人でなくちゃならんのさ」
「誰の言葉?」
「私」
今度は、ユウが吹き出す番だった。
「海水の塩分濃度は、土壌からの影響で少しずつ変化している。生物はそれに適応しないといけない。塩をかけられたナメクジのようになりたくなければな」
わかばは、鞄から仕事道具を出しながら、そんなことを言った。
「それで、陸に上がっちまおうって?」
「生命進化は、水からの自立だったのかもしれんな」
悲しいなあ、と、ユウは言う。
まあな、とわかばは静かに頷き、書き仕事に取りかかった。
* * *
ヨサリは、毎晩、水槽の中で眠る。
水槽は古く、脆い。ひびは少しずつ広がり、欠けていく。
目を閉じ、想像する。
眠っている間に水槽は崩れ、ヨサリは呼吸を失う。
けれども完全に心臓が止まってしまう前に、誰かが、肩を揺さぶる。強く、少し乱暴に。ヨサリを助け起こし、呼吸のしかたを教える。
そうして、朝、ヨサリは目を覚ます。
<了>
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