エウロパの海>試し読み

     

『弓』の第一節

 
 ベルリン旧市街、夜。廃墟となったアパートの一室。古いベッドの上。
 どこから書けばいいか悩んだけれど、もうすべては済んでしまったことなのだから、好きなところから書けばいいような気がしてきた。それなら、始まりの場所はここでいいだろう、と。
   
 そういうわけで、僕は廃アパートのベッドルームで、埃まみれのマットレスに毛布をかぶせ、その上にあぐらをかいて座っている。素っ裸で、二本目の煙草を吸っているところ。脱いだ服は、その辺の床に散らばっている。指先が震えるほどに寒い。けれども、服を着るより先にニコチンの欠乏を解消したかった。煙草を吸い始めるときりがなくなるので、たいていは二本吸いきったところで自分を叱りつける。そうして強制的に次の行動に移らないと、煙を吸って吐くだけの、何の役にも立たない装置になってしまう。しかも全裸だ。
 この二本目でおしまいだぞ、と。吸い終わるまでは自分を甘やかすことに決めて、僕は窓の外を眺めていた。見渡す限りの闇。廃墟となった街には、当然、明かりがない。その晩は月も出ていなかった。星の光のもと、ほんの僅かに建物の輪郭を見て取れる。けれども、それだけだ。吸い込まれるような闇であることに変わりはない。自分もまたその一部だと、不意に思った。夜と体の境界がぼやけ、体は夜に溶け出す。
 そんな感覚を振り払うように、僕は、皮膚の上から肋骨を数える。そうやって、自分が物理的に存在していることを確認する。ひとつ、ふたつ、と、ひとまず十まで。肋骨と肋骨の間には、いくつかの古い傷があって、こうやって手を滑らすと触れてしまう。もう全然痛くはない。ただ、痛い記憶がちょっとだけ蘇る。脇腹に手を伸ばして、じゅういち、じゅうにと、胸骨まで届かずに浮いている肋骨も数えていく。そして、これでおしまい、と煙を吸い、ゆっくりと吐き出す。大丈夫、この骨は本物で、ちゃんと僕のものだ。僕は物理的に存在している。確認終わり。ベッドから立ち上がり、短くなった煙草を灰皿で揉み消した。この部屋の最後の住人が、喫煙者であった証拠品だ。ベランダに転がっていた。まっとうな人間社会においては、屋内で煙草を吸うことは許されない。
 だるい体を無理やり動かして、服を拾い、元どおりに身につけた。Tシャツを二枚重ねて、その上にセーター。綿のズボン、安いベルト。そろそろ、靴下は二枚重ねて履かないと冷えるなあ、なんてことを考えながら、靴を履く。綿の入った外套を着て、マフラーを巻く。
 埃で曇った姿見に目を向ける。全部着ているよね、という確認。
本当は鏡なんて見たくないのだけれど、見なければ服を着ているか分からなくて不安になる。皮膚感覚の異常だと、ファエトンが前に言っていた。普通は分かるものなのだ、と。とりあえず、鏡に映っている僕は、ひととおり衣服を身につけている。伸びた赤い髪がマフラーに絡まっているけれど、そういうのは別に気にしない。顔はあまり見ない。僕は自分の顔が好きではない。よく分からないけれど、ヨーロッパ人ではないのだと思う。顔立ちも皮膚の色も違う。中東やアフリカから移住した人たちの子孫とも違う。そんな、どこか遠くの知らない場所から流れ着いたような僕の顔を、エキゾチックという言葉で表現したのは、ファエトンだった。出会ってから、まだ間もない頃だったと思う。
「ツバルとか、ポリネシアとか」
 それ、ほとんど沈んでいるよね、と僕は答えたと思う。
「そういうのも含めて、お前には何か、遠い南の国への憧憬を掻き立てるものがあるよ」
 南の国。僕は、自分がこの地球上のどこで生まれたのか知らなかったし、この地球上にどんな場所があり、どんな景色が広がっていて、そこは暑いのか寒いのかも、全然知らなかった。僕にとってのほんとうの現実は、この廃墟になった街ひとつと、ファエトンのような数人の仲間だけだった。新しいベルリンで暮らす大勢の人は、僕とは別の種類の人間なのだと思っていたし、たぶん、僕も彼らからそういう風に思われていた。
 とりとめもない考えを振り払い、改めて鏡に注意を向ける。
 もし見た目が大事だということなら、何でもないような格好をしていれば、何でもないものになれるかもしれない。できるだけ地味に、目立たないように、と。
「それは身体感覚の喪失だよ。あるいはただのズボラ」
 これも、ファエトンの言葉。身体感覚。あるいは皮膚感覚。彼はよくそういう言葉を口にする。
「暑いとか、寒いとか?」
「痛いとか、苦しいとか、だよ。お前はすぐに、そういうことを忘れてしまう」
 どうだろうなあ。
 僕は鏡から目を逸らし、また煙草に火を点けて、だらしなく咥えたまま廊下に出た。階段を下りて、アパート共用の小さな庭に出る。
 じきに雪が降る。
 過ぎていく風が、チリチリと頬を刺した。この風が、雪を連れてくる。
「遅かったな」
 ファエトンが携帯用コンロを使っていた。小さなコーヒーポットが乗っている。
「そう?」
「どうせ、だらだらと煙草を吸っていたんだろ」
 こちらを振り返り、呆れたように笑った。髪も、皮膚も、夜の中に白く映えていた。アルビノ、いわゆるメラニン色素欠乏。そんな言葉を、ずっと昔に彼から聞いた。陽の光に弱い彼は、ずっと、夜の住人だった。
「さっき、車の音が聞こえたけど」
「リッカたちだよ。治安警察がうろついているって、知らせに来てくれたんだとさ。俺も、これを飲んだら行くよ」
 ホーローのカップが二つ。沸いたコーヒーを注ぐ。
「クーは、どうする」
 カップをこちらに差し出しながら言う。
「早々に片付けて、寝ちまった方がいいかもしれないぞ」
「僕は、やましいことは何もしていないけれど」
「住所不定、無職の不良市民が」
「僕の住所は大学の寮だし、僕は学生だよ」
「物乞いはだめだろ」
「してない」
 僕を無理やり犯罪者にしないでほしい。
「売春は」
「君がいつ僕に金を呉れたって?」
 ファエトンは、小さく笑った。カップに残っていたコーヒーを飲み干し、カップを置く。
「フォーマルハウト」
 空の低い場所を指して、呟く。
「うん」
 一等星、フォーマルハウト。すぐに、南の地平線へと沈んでしまう星。晴れて月のない晩だったけれど、この時期、明るい星はまだ少なかった。
「もうじき、沈むな」
 通りの向こうに、人影が見えた。暗闇でも分かる、真っ白な人型のシルエットが三つ。簡易防護服の白だ。ベルリン旧市街は、先の大戦で使われた化学兵器の影響で、全域が汚染地域に指定されている。
「じゃあ、俺は行くよ。お前も、ちゃんと、気を付けろよ」
 真っ白い髪を隠すように、ファエトンはカーキ色の外套のフードを目深に被る。そして、助走もなく、大きく跳ぶ。器用に隣の商店のひさしから屋根に上がる。屋根から屋根に飛び移り、すぐに見えなくなる。遠くに、針金細工のような電波塔が見える。その辺りが、彼の寝床だった。月の明るい夜には、よくあれにのぼって、この廃墟を見下ろしている。今日は暗いから、きっと、戻ったらすぐに寝てしまうのだろう。
 残された僕は、仕方なく空を見上げる。コーヒーはまだ少し温かい。短くなった煙草を消して、あと一本だけ、と火を点ける。
 新月の夜だ。しかも、寒い夜だった。空は澄み、星が明るかった。僕はその小さな光を拾い、古い名前を呼んだ。シリウスとか、プロキオンとか、アルファルドとか。そういう、もう誰も呼ぶことのなくなった古い名前を。そうやって、白い防護服たちがこちらまで来るのを待っていた。ランタンの明かりを消す事もしないで。ここにいるということを、親切に伝えているつもりだった。早くしてくれないかな、くらいのことは思っていた。
 ベルリン旧市街は立ち入り禁止というわけではないので、僕やファエトンのように、ここで気ままに暮らしている人間は他にもいる。たまに顔を合わせ、挨拶を交わし、必要なものがあれば交換することもある。数は多くない。トラブルもほとんどない。電気もなく、水道も満足に使えない環境だ。あえてそういう場所で生活しようという人間は、生きていくために必要なものを、よく分かっていた。
 けれども、健康と安全を自ら手放すことは、法的には認められていたとしても、社会的には認められないものらしかった。白い防護服は、そういう許されざる人間を、健全な生活を送れる場所に連れて行くために、時折こうして巡回している。そして旧市街で寝泊まりしている人間に、いかに誤ったことをしているのかを説いて回っている。彼らは治安警察であり、公務員なわけだけれども、やっていることは聖職者だよな、と思う。旧市街という、古い世界に縛られた人間を、新しい世界に連れて行くための宣教師だ。
 僕は、彼らから、つまり僕が本来属している社会から見れば、異教徒なのだろう。
 そんなことを考えながら、残っていたコーヒーをカップに注いだ。長いこと裸でいたせいで、芯まで冷え切っていた。
 信仰、と僕は呟く。僕が異教徒ならば、その信仰は一体、どんなものだろう。僕をこの旧市街に縛り付けているものがあるとして、それは確かに、信仰と呼ぶのが一番しっくりくるような気がした。でも、それがどんなものかといわれても、まだ形が見えず、触ることもできなくて、説明のしようもなかった。僕と、旧市街との間にある、何か、だ。
 旧市街。何となくそんな言い方が定着していたけれども、よく考えると適切ではない。新市街はないからだ。あるのは巨大なデータサーバーと、膨大な並列処理を行うコンピューターだけだ。旧市街の地下深くにある頑丈な空洞の中で、それらは休みなく動き続けている。それが、ベルリンという街の実体だ。
 アインシュタインは言った。物質はエネルギーに変換できる、と。また、マクスウェルの悪魔は言った。情報はエネルギーに変換できる。ならば、エネルギーを情報に変換することもまた可能なはずだ、と。その結果、物質は可逆的に情報に変換されることが可能となった。そのプロセスのどこかで失われるものがあったとしても、適当に補完すればいいだけのことだ。
 そうやって、人類はこの荒廃した地上を捨てることに成功した。僕のような例外は、単なるエラーとして処理される。異教徒。信仰を異にするもの。エラー。
 やがて、白い防護服が僕の前に立った。三人。だいたい同じ背格好。胸にはベルリン治安警察のマーク。ここまではだいたい予想どおりなのだけれど、次の言葉は、ちょっと想定外だった。
「クー・ヘスだな」
 真ん中のやつが言った。
 それは、僕のフルネームだ。
「ご指名?」
 何かまずいことでもしたかなあ、と考える。つまり、治安警察に三人連れで来られて、名指しで怒られるようなことを。僕はいくつかの可能性を思い浮かべ、そして、面倒くさくなってぜんぶ霧散させた。
「質問に答えてもらいたい。君は」
 と、白服が言い終わらないうちに、僕は勢いをつけて立ち上がるついでに、目の前の携帯コンロを蹴りあげた。逃げられるとは思っていなかったし、本気で逃げるつもりもなかったのだけれども。
 コンロは、左の奴が手で払った。僅かに残っていた熱いコーヒーが散った。おい、だか、こら、だか、ともかく太い声で怒鳴られたと思う。そして、あっさりと両腕を捻り上げられ、三人がかりで、背後のアパートの壁に顔面から押しつけられる羽目になった。
「手荒なまねをするつもりはない」
 すぐ耳元で、男の声がする。たぶん、右にいた奴。これが手荒なまねでないというなら、普段どんなことをやっているのかと思う。それを口に出す余裕はなかったけれども。
「一緒に来てもらえないか」
 別の男が言った。たぶん、真ん中にいた奴。
「任意同行だ」
 さらに別の声。残っているのは左にいた奴だ。
 ところで、任意って、何だっけ。

 記憶。
「あなたに、お会いしたいと思っていました」
 あのとき、女王陛下は、はっきりとそう言った。
 だからといって、治安警察を使うなんて色々おかしいんじゃないかな、と思うし、用事があるなら早く済ませて、さっさと自由にしてほしかったのだけれど。わけもわからず拘束されるのは心臓に悪い。それが何日も続いたなら、なおさら。
 なんて、とりとめもなく思い出しているうちに、少しずつ、あのときの腹立たしさまで思い出してしまう。
 独房の扉が開いたのは、それが閉じられてから四日後の、午前五時三十分のことだった。

「じきに、雪が降るよ」
 僕は、四日間閉ざされたままの扉に向かって言った。煙草が吸いたかった。
「この街に、雪は降らない」
 扉の向こうで、看守が言った。
「そう。それは残念」
 扉が開いた。
 出ろ、と看守が言う。長身で、細身だけれども肩幅は広く、見るからに強そうな印象。取っ組み合いになったら、一瞬で骨の二、三本は折られそうだな、と思う。僕はといえば目を覚ましたばかりで、ここはどこだっけ、という、状況確認の初期段階をようやくクリアしたところだ。勝てるわけがない。
 僕が放り込まれていた独房は、ベッドとトイレと小さなシンクがあるだけの、非常にシンプルで人間的な部屋だった。ちなみに人間的という言葉を、ここでは衛生的で安全で不自由であるという意味で使っている。食事は一日に三回提供される。シャワーは無かったけれど、水道はあるので身体を拭くことはできる。贅沢だ。そしてある意味においては、これこそ自由と呼べるものなのかもしれない。食べるものや寒さや寝床の心配をしなくていい。何となく遠慮したいタイプの自由ではあるけれど。こんな殺風景なのは、ちょっとなあ、なんて。
 独房に時計はなく、窓もなかった。先ほど述べた滞在期間は、一日を二十五時間として計算しているけれど、それは僕の体内時計がそうなっていて、ほかに基準とするものがなかったためだ。二十五時間というのは人間の生物学的な性質であって、僕の個性ではない。古来、人間社会において一日を二十四時間としているのは、偉大なる太陽と母なる地球の契約によるもので、人間がいくら自分の都合を主張しても、子供は黙っていろと言われるだけだ。
 独房から出された僕は、看守に引っ張り回されるままに、着替えたり、髭を剃ったりした。用意された服は、アイロンのあてられたシャツと、プレスされたズボンだった。明らかに僕の持ち物ではない。どういう経緯でここにやって来たんだ、と、僕はシャツに向かって問いかけたくなった。ひとりきりの時間が長すぎたせいかもしれない。あるいはニコチン中毒の禁断症状かもしれない。実は独房を出たところで一度、煙草が吸いたいと主張したのだけれど、あっさり却下された。却下というか、完全に無視だ。
着替えながらちらりと見た時計には、十一月二十日、午前九時四十五分と表示されていた。計算。二十四時間制に換算すると、僕の体内時計との差は二十分程度。正確と言って差し支えないと思う。
 ここが、ベルリン・シティ・コロニーのどの辺りに位置するのかは分からない。だいぶ下層に位置することは間違いないと思う。レイヤータイプのデータ構造を持つシティ・コロニーにおいては、一般的に上層部に主要施設や居住地区が造られ、地価も上層ほど高い。留置所や刑務所、あるいはそれに類する特殊な隔離施設は、下層になる。もっとも、独房に放り込まれるまでにあちこち連れ回されたせいで、位置の感覚はすっかり麻痺してしまっている。もしかしたら、そういう意図で僕を連れ回したのかもしれない。逃げようにも、自分がどこにいるのか分からないのでは話にならない。よく考えられている。看守に連れられて、僕は大型のエレベーターに乗せられた。レイヤー間を移動するための、いわゆる多層間移動エレベーターだった。ずいぶん長い時間、上昇していたように思う。その間、看守は僕に背を向けたまま、何も言わなかった。
「女王陛下にでも会わせてくれるの」
 僕のセンスのない軽口は、あっさりと流される。ニコチン中毒者の相手をしているほど、心に余裕が持てる仕事ではないのかもしれない。あるいは、勤務中の私語はかたく禁じられているのかもしれない。ただ、舌打ちをしたのは、僕にもちゃんと聞こえていた。こんな狭い箱の中で、これだけ近い場所にいれば当然だ。そもそも舌打ちというのは、相手に言葉以外の手段で不快感を表すための手段で、聞こえなければ意味がない。要するに僕は、黙れと言われたらしい。
ちなみにこの下らない冗談が、実は正解だった、なんてオチがこのあとに待っている。
 エレベーターを降りたところで、看守は言う。
「釈放だ」
「え、それだけ? 僕の荷物とか……」
「俺の仕事はここまでだ。あとは、あっちについていけ」
 彼の指さす先に、グレーのスーツ姿の男性が立っていた。四十代か五十代はじめくらいの、白髪混じりの男性だった。僕の姿を認めると、すごく感じのいい笑顔になった。中央議会の係官だと、看守が低い声で言った。ベルリン中央議会。政治家がいるところ、くらいのことしか分からない。
「荷物だのなんだのも、あの連中が今朝引き取っていった。あとは知らん」
 その声には、隠す気もないような不愉快さが含まれていた。そして、それは僕にというよりは、向こうに立っている男性に向けられているようだった。
 その議会係官はというと、自分に向けられている負の感情など見えも聞こえもしないどころか、看守の存在さえも認識していないかのような様子で、僕に恭しく一礼した。
「クー・ヘス様でいらっしゃいますね」
 様、だって。
 そんな敬称で呼ばれるのは、もしかしたら生まれて初めてかもしれない。
「外に、車を用意しております」
 係官は慎ましく微笑み、言った。
 僕は、大人しく従うしかない。僕の意思とは関係なく、僕は運ばれていく。
 ベルリン・シティ・コロニー、中央議会議事堂、議長室。
それが行き先であり、僕が通された部屋の名前だった。
先に事情くらい説明してほしいものだけれど、残念ながら、人生には、先に起こることを説明してくれるような機能はない。高度情報社会なんていうけれど、この程度のものだ。
 車の窓から見える風景は、旧市街のそれをそっくり写し取ったようだった。違うのは、人がいることと、植物があることだ。街路樹に葉が茂り、生け垣には花が咲いている。旧市街にあるのは、立ち枯れた街路樹の残骸だけだ。やがて、議事堂の丸いドーム屋根が見えてくる。それは、巨大な神殿のような建物の上に、どこか不似合いにくっついている。地上に目を落とせば、建物をぐるりと取り囲む緑色の芝生が、目に眩しかった。敷地内は出入りが自由で、芝生の上に横になっている人もいれば、転がり回って遊んでいる子どもの姿もあった。
 係官に連れられて、大きな窓がある部屋に通された。眩しいな、と、僕は思わず目を細めた。窓は裏庭に面していた。陽の光が咲き乱れる花の色を溶かし、桃色や黄色に輝いていた。コロニーの花は、枯れない花だ。桜は咲き続け、散り続けている。パンジーと、チューリップと、マーガレットと、あと何種類か僕の知らない花が見える。芽を出し、葉を広げ、花が咲いたらあとはそのまま。この街で売られている黒い種には、そういうふうにプログラムされている。死なない花で、綺麗にととのえられた庭。
 視線を部屋の中に戻す。
 ベルリン・シティ・コロニーの元首、イリス・クラウディア議長。
 それなりの年齢のはずなのだけれど、どう見ても二十歳前後にしか見えない。正確な年齢は知らない。ハニーブロンド、瞳は緑色。白い肌に白いロングドレス。何から何まで眩しい。その整った容姿と穏やかな物腰から、支持者は親しみを込めて「女王陛下」と呼んでいる。
 彼女は手元の端末を操作し、窓ガラスをブラインドモードに変更した。ガラスは落ち着いたブルーの壁紙に変わり、鮮やかな中庭は見えなくなった。部屋の中は少し暗くなった。目がついていかない。
「見られると、何か不都合が?」
 思わずそう尋ねると、クラウディア議長はこちらに向き直り、穏やかに微笑んだ。
「いえ。花はお嫌いなようでしたから」
 それから、クラシカルなドレスの裾を軽く持ち上げ、こちらに近付いた。
「あなたにお会いしたいと思っておりました。クー・ヘス」
 凛とした声が、部屋に響いた。差し出された右手を僕は見下ろす。
「人違いだと思います」
 僕にとっては、一生会う予定のない相手だ。
「そうおっしゃると思いました」
 微笑んだまま、僕にソファを示した。長い話になるぞ、と言われているような気がして、僕は一瞬躊躇した。ふと、先ほどまで見えていた中庭の花を思い出した。風に揺れる、白いマーガレットを。僕に拒否権はなかった。勧められるままに座り、今は見えない庭の方に目を遣った。
「あなたにお会いするために、手荒な手段を用いたことをお許しください。抵抗なさるとは思っていなかったのです」
 向かいのソファに腰を下ろしながら、クラウディア議長はそんなことを言った。自身には一点の穢れもないと、胸を張って言える人間の声だった。
 つまり、この四日間ほど独房に放り込まれたのは、僕をここに引きずってくるために必要な過程だったということらしい。怒りはなかった。どうせ浪費されるだけの時間だ。けれども、馬鹿じゃないのか、くらいのことは思った。抵抗されると思っていなかったというのは、つまり僕が治安警察に大人しくついてくると考えていたということだ。何か皮肉くらいは言いたかったけれど、その前に、花のような女王陛下はひとりで言葉を続けた。
「不当な拘束であったことは認めます。それについてはあとでしかるべき対応をさせていただきます。こちらにも事情があり、様々な決まり事があります」
「それは、僕の四日分の自由に値する事情ですか」
「そうです」
 即答。
「安い事情ですね」
「あなたにお願いしたいことがあり、お呼びしました」
 安い、と言ったのは、彼女にとってのことだ。彼女にとって安い事情だからといって、僕にとっても安いとは限らない。独房に放り込んでからお願いするというのも、よく分からない。もしかしたら、シティ・コロニーという文明圏では常識なのかもしれないけれど。というのは、もちろんくだらない冗談。
「僕は学生で、浮浪者です。シティ・コロニーの議長から直接何かを仰せつかるには不適切です」
「あなたは、意図して不完全であろうとしているのですか? それとも、あなたが望むことに付随する現象として、現在の不完全さがあるのですか?」
 後者です、と僕は答える。何を望んでいるのかは不明確だとしても。
 冷静ですね、とクラウディア議長は言う。そして、少し身を乗り出し、こちらに顔を近づけ、次に発した言葉は、僕にとって予想外のものだった。
「ワルシャワ・シティ・コロニーが消滅しました」
 彼女の声には、抑制と、意図された均整があった。
「……は?」
 ワルシャワ。ベルリンから遙か東、だいたい六〇〇キロくらいのところに位置する街。ベルリン同様に、物理的な都市を捨て、地下サーバーの中で動くシティ・コロニーに移行している。
「消滅した、っていうのは」
「ワルシャワだけではありません。すでに八つのシティ・コロニーが消滅しています。世界各地です。共通点はありません。コロニーであるということ以外は」
 彼女は、いくつかの都市名を挙げる。一番近いのがワルシャワだった。
「ここもまた、消滅する可能性がある、ということですか」
 そうです、と彼女は迷いなく頷く。
「それで、僕に何を」
「『ヘス文書』というものを、聞いたことはありますか」
 ヘスは、僕の姓だ。
 僕は、自分が呼ばれた理由を理解した。僕の姓は、同時に、僕の親の姓でもある。
「都市伝説です」
 と、僕は答える。
「シティ・コロニーの成立に大きく貢献した、都市工学者ヘス博士の手記、とか、何とか。シティ・コロニーの基幹システムに関する重要な情報が含まれている、といった話もありますね。都市伝説ですから」
 情報によって成立する都市には、こういう迷信も多い。
「それ以上の情報は、お持ちではありませんか」
 僕は思わず笑ってしまう。嫌な人間だなあ、と思う。彼女の問いには、答えない。
「あなたをお呼びしたのは、コロニーの基幹システム、いわゆるガイストによる指名です。ガイストはご存じですね」
 ガイスト、と、口の中で繰り返す。
「シティ・コロニーにおける、総合的な環境管理システム」
「過不足ない回答です」
「そのように学びました」
 彼女は頷く。
 ガイスト。精霊。なぜそんなおかしな呼び方をするのかは知らない。他の言語圏では別の表現をしているのかもしれない。要はただのシステムだ。
 議長は続ける。
「このベルリン・シティ・コロニーという名前の、巨大な人工都市は、ガイストと呼ばれるシステムによって総合的に管理されています。物質を情報化し、仮想的に作り上げた現実の中で、電力も、水も、人工的に昼夜や天候を作り出しているのもガイストです」
 ここまではいいですね、と僕の目を覗き込む。僕は無言で頷く。そして目を逸らす。青い壁。その向こうの庭。花もまた情報だ。それも、歪められた情報だった。ガイストは働き、花は育ち、そして散らない。
「今回の、シティ・コロニー消滅についても、ガイストに何らかの異常が発生したものと考え、技術者の間で対応を検討していますが、その中で『ヘス文書』の名前が挙がったのです」
「藁にも縋る」
 何とやら。あるいは、何だっけ。似たような慣用句は、色々な言語に色々な形であるらしいけれども。
「たとえそんな文書があったとして、公開されていないということは、ヘス博士は公開を望まなかったということじゃないですか。そこに書かれている知識の学術的価値よりも、それが社会に引き起こす弊害を憂慮したということでは」
「ヘス博士は、すでにベルリン市民としての権利を行使することが出来ません。その権利は剥奪されている。そして博士の法的権利の全ては、息子であるあなたに移譲されている」
 僕は、大きくため息をつく。議長は、構わずに続ける。
「もう少し踏み込んだ言い方をします。ガイストがあなたを、指名したのです」
 どういう意味ですか、と僕は問う。目は逸らしたままで、見えない庭を睨みながら。
「人工知能を備えたシステムである以上は、人間の意志を模した機構もあります。一般的には公開されていませんが、ともかくこのコロニーのガイストの人格が、あなたを指名したのです。あなたに、その文書を開示し、この状況を打開する手がかりとするようにと」
「つまりコロニーのシステム、というかガイストは、『ヘス文書』の存在を認識していると言うことですか」
「そうです。様々に尾ひれが付けられて語られている都市伝説とは別に、シティ・コロニーそのものであるガイストは、その成立過程に、関係者がそういった文書を残していたことを認識しています」
 クラウディア議長は、淡々と説明する。けれどその冷静な言葉の中に、途中から厳しさが含まれてきたのを、僕は感じていた。あるいは、それは焦りだったのかもしれない。
「コロニーを動かしているシステムの大部分は、ほとんどがブラックボックスの状態です。メンテナンスは行われていますが、十分に内部構造を知り尽くした人間は、恐らくはもういません。今回のこの事態の原因には、そうした背景もあると考えています。……分かっています、クー・ヘス」
 口を挟もうとした僕を、ぴしゃりと遮る。
「あなたの言いたいことは分かります。だから最後まで聞いてくださいませんか」
「その文書が存在していると仮定して」
 僕は、無理やり口を挟む。座り心地の悪いソファの上で、心もち姿勢を正す。
「ヘス博士は、徹底的にその文書を隠していたことになります。僕も、それがどんな文書なのか知りません。ほかの大勢の人間と同じで、きっとただの都市伝説なのだと思っています。たとえ存在していたとしても、電子情報はいくらでも書き換えができる。もちろん削除も」
「あなたは、シティ・コロニーというシステムを維持することの重要性が理解出来ない」
 そうです、と、僕は頷く。
 議長は、わずかに動揺した風だった。
「あなたはご自身の生存にさえも、興味がないのね?」
 どうだろう。そこまで後ろ向きだとは思っていない。
「僕に何かやらせたいなら、無理やり引きずってきて命令すればいい。公共の福祉と社会秩序の維持のために、それくらいの権限は貴女に与えられているはずでしょう。お願いすれば快く引き受けてくれるような、優しく思いやりのある人間ばかり相手にしていると、そういう感覚になるのかもしれないけれども」
 わかりました、と、イリス・クラウディア議長は言う。
「ならば、仕事として、『ヘス文書』の特定と解析をお願いできませんか。このコロニーを救う糸口を、掴んでほしいのです」
 仕事だって。
 報酬は何だろう、とか、僕は学生なんだけど、とか、色々と言いたいことはあったはずなのだけれど。
 

 思考。
 あるいは、試行。

 この文章を、僕は合成パルプのノートに万年筆で書いている。万年筆。筆記用具の中でも、かなり古風で、そのぶん扱いづらいものの部類に入る。インクはブルーブラック。すべては、終わったことだ。そして、この文章は、誰かに読まれることを目的としていない。じゃあ何で書くんだ、と言われると困るのだけれど。書き終わる頃には、その答えも出るかもしれない。ともかく今は、できることなら、このまま時の流れに埋もれて、静かに朽ちていけばいいと思っている。
 それでも、誰かがこれを拾い上げてくれるというのならば、どうか、次に記すささやかな願いを、聞き届けて欲しい。
 筆者であるこの僕は、本稿がデジタライズされることを望まない。情報ではなく物質として、読者の手に触れることを期待する。

     
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