ロンドン・ナショナル・ギャラリー展のこと

これも振り返り記事なのだけれど、先月、大阪の国立国際美術館の『ロンドン・ナショナル・ギャラリー展』に行ってきた。全61点、数は少ないけれども全てが「主役級」とうたっているだけあって、ただただ凄かった。たった61点を見るのに、2時間半くらいかかってしまった。公式が1時間くらいを目安に…とアナウンスしているのに、なんかすみません…。

一番の目玉はやはりゴッホの『ひまわり』で、一番最後に、お待たせしました皆様これを見に来たんでしょう!?とばかりに輝かしく展示されていた。ほんとに輝いていた。眩しかった。これは絵を見に行くといつも思うのだけれど、本当に、本物だけが持っている輝きってあるじゃん。なんかもう光ってる。光が降り注いでる。これがアルルの日差しか…と目を細めて見上げてしまう感じの。素晴らしい絵は空間を変えてしまう。土と陽の匂いがするほどに。

ところでこの『ロンドン・ナショナル・ギャラリー展』、本当ならGWには上野でやっていて、大阪から仙台まで帰省する途中で行こうと思っていたのだけれど、コロナで帰省がなくなって行けなくなったという経緯があり。仕方なく大阪会場の前売り券を買い直すも、会期が全体的に延期になっていて、ようやく。ようやく大阪展が開会したのが11月3日。

兵庫県立美術館のゴッホ展に行ったのは2月のことなので、半年以上も大型の展示に足を運ぶ機会がなかったことになる。その間、なんていうか、文化が枯渇していくのをひしひしと感じていた。家で図録でも眺めればいいとか、小さな展示ならそこかしこでやっているとか、理屈ではそうなのだけれど、実感として美術館に行きたいし、本物の、なんかもう圧倒的な作品を目の当たりにして打ちのめされて放心状態で帰ってきたい!みたいな状態だった。

そうして待ちわびるように公式Twitterを見ていたら、大阪展の開会直前に、公式アカウントでこんなツイートがあった。

https://twitter.com/london_2020art/status/1319931859220901889?s=19
まもなく、西洋美術のスターが大阪に集結します!

スターって、美術に対してはあまり使わない気がする。少なくとも古典的芸術作品に対しては。けれども妙にしっくりきてしまって、何となく印象に残っていた。私はゴーギャンが一番好きで、ゴッホやモネもとても好きなのだけれど、開催を待ちながら、確かに彼らの作品はスターだと思った。

この展示についてはもう少し色々なことを語りたいので、またそのうち何か書いたりしているかもしれない。

行けなかったバーのこと

5月下旬のことだけれど、コロナで開催延期状態のコートールド美術館展(神戸展)が、正式に開催中止となった。開幕することなく終了。この件は、コロナに対する憎しみの何割かを占めている。

この美術展の目玉のひとつが、マネの『フォリー・ベルジェールのバー』だった。展示に前後して放映された日曜美術館でも取り上げられ、この絵に描かれている、時代の社会の縮図のような様々な人びとについて丁寧に紹介されていた。時代を超える絵は、常に大きな物語を背負っている。

その昔、絵というのは、ただ見て、好きかどうか、綺麗かどうか、そういう判断をするべきで、時代だの背景だの作者の生い立ちだのといったものは、余計な付加情報だと思っていたような気がするし、昔の展覧会はそういうスタンスだった記憶がある。絵は淡々と並べられ、感じ方は見る人に委ねられていたし、こちらもそのつもりで足を運んでいた。

美術展は、この数年くらいの間で、大きく変わったような気がする。その筋の人間ではないので素人感覚なのだけれど、「ゴッホとゴーギャン展」「ミラクルエッシャー展」「ムンク展」…など、ここ最近見に行った多くの展覧会では、ひとつの物語を潜り抜けていくようにして作品を見ていた。そこには画家の人生があり、社会背景があり、今この時まで伝えられるべき理由があることが、ちゃんと示されていた。

そして、絵にはどういうわけか本物を見た時にだけ感じられる奥行と広がりと温度があって、だからネットで見ればええやんとか、図録は通販するらしいぞという話ではない。私はフォリー・ベルジェールのバーが見たかったのではなく、フォリー・ベルジェールのバーに行きたかった。

この一件は今でも結構引きずっていて、コロナという言葉の向こうには行きそびれたバーがあり、美しいバーメイドが微笑んでいる。

ジャガイモからヒマワリが咲くまで

もともと日記的に使っていた某所を閉じて、こちらにお引越ししようと思っているのだけれど、お引っ越しついでに、今年のことをぽつぽつ振り返って行こうと思う。メモのようなものがほとんどだし、あちらはあちらで置いておくので、どうせならただコピー投稿するよりも、思い出しながら書き直してみた方が面白いと思って。

そういうわけで、遡ること今年の2月に、兵庫県立美術館で開催していたゴッホ展に行ってきた。まだコロナなんて影も形もない頃だった。

ゴッホ展と聞いて、求めていたのはこう、ぐにょっとしてビビッドな、いかにもゴッホ的なゴッホだったのだけれど、そんな作品は終盤にふたつみっつ見られるくらいで、あとは言われなければゴッホだと分からない作品ばかりで、それがとてもよかった。ハーグ時代から印象派との出会いを経て、よく知られたゴッホの作品に繋がる紆余曲折と四苦八苦と試行錯誤がずらりと並んでいて、ゴッホですらこうだったのか…と物凄く衝撃を受けたのを覚えている。あとは、私もめちゃがんばろう…って思ったりしていた。ゴッホですら、こうだった。こうだったのか、と。

コロナ前ではあるけれども、年末頃から生活が大きく変わったタイミングで、この先の創作活動をどうしていけばいいのか、小説をどうやって書いていこうかと、うだうだしていた時期だった。それもあって、なんかもう、ものすごく心に響く展示だった。

このあとすぐにコロナで世の中全体が大きく変わって、ちょっとした変化なんて問題にならないレベルで、何か根本的な、大きなものを問われているような状態が今までずっと続いていて、あの時考えたことについてはまだ全然答えが出ないまま、今に至っている。