行けなかったバーのこと

5月下旬のことだけれど、コロナで開催延期状態のコートールド美術館展(神戸展)が、正式に開催中止となった。開幕することなく終了。この件は、コロナに対する憎しみの何割かを占めている。

この美術展の目玉のひとつが、マネの『フォリー・ベルジェールのバー』だった。展示に前後して放映された日曜美術館でも取り上げられ、この絵に描かれている、時代の社会の縮図のような様々な人びとについて丁寧に紹介されていた。時代を超える絵は、常に大きな物語を背負っている。

その昔、絵というのは、ただ見て、好きかどうか、綺麗かどうか、そういう判断をするべきで、時代だの背景だの作者の生い立ちだのといったものは、余計な付加情報だと思っていたような気がするし、昔の展覧会はそういうスタンスだった記憶がある。絵は淡々と並べられ、感じ方は見る人に委ねられていたし、こちらもそのつもりで足を運んでいた。

美術展は、この数年くらいの間で、大きく変わったような気がする。その筋の人間ではないので素人感覚なのだけれど、「ゴッホとゴーギャン展」「ミラクルエッシャー展」「ムンク展」…など、ここ最近見に行った多くの展覧会では、ひとつの物語を潜り抜けていくようにして作品を見ていた。そこには画家の人生があり、社会背景があり、今この時まで伝えられるべき理由があることが、ちゃんと示されていた。

そして、絵にはどういうわけか本物を見た時にだけ感じられる奥行と広がりと温度があって、だからネットで見ればええやんとか、図録は通販するらしいぞという話ではない。私はフォリー・ベルジェールのバーが見たかったのではなく、フォリー・ベルジェールのバーに行きたかった。

この一件は今でも結構引きずっていて、コロナという言葉の向こうには行きそびれたバーがあり、美しいバーメイドが微笑んでいる。